こんにちはMaruです。
2020年3月2日の逆転人生に
戸島国雄さんが出演します。
日本では鑑識として活躍されていましたが
第2の人生の場にタイを選び
鑑識の技術をつたえようとしました。
けれど捜査に対する考え方や
鑑識という概念がないために
なかなか上手くいかず苦悩する日々でしたが
あることをきっかけに認められるようになりました。
似顔絵捜査のパイオニアの人生を変えたのは
最愛の妻がキッカケですが
一体どんな人生を送ってきたのか
詳しく調べてみました。
目次
戸島國雄の鑑識の実力で逆転した人生とは?
戸島国雄さんは過去に何度もテレビ出演されているので
知っている人も多いと思いますが
今夜ほど詳しく語られることは少ないじゃないの?
と思っています。
ただ広い世の中には戸島国雄さんの事を初めて知った人
(少なくとも私は初耳です)
のためにどんな人物なのか
プロフィールを紹介したいと思います。
戸島國雄のwikiプロフィール
タイに渡った鑑識捜査官 妻がくれた第二の人生 [ 戸島国雄 ]
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氏名:戸島國雄(とじまくにお)
愛称:似顔絵のトンちゃん
生年月日:1941年1月1日
年齢:79歳(2020年3月現在)
戸島國雄さんって元旦生まれなんですね~
新年早々めでたいですが
昔の出生の日付って正確さにかけると言うか
数日位ならズレていることがよく合ったそうです。
理由は「別の日の方が縁起がいい」といって
変えることがよくあったと聞いたことがあります。
昔は今と違って色々と緩い時代だったので
ひょっとすると戸島國雄さんも
本当に生まれた日は
元旦ではなかったのかもしれませんね。
戸島國雄さんは警官になる前は
自衛隊のエリート部隊と言われる
空挺団に所属していました。
自衛隊に所属していたのは5年ほどで
1965年の24歳の時に警官になっています。
1970年には警視庁刑事部鑑識課の
現場写真係として働くようになりました。
戸島國雄さんが担当した
主な事件は誰しもが知っている
有名な事件ばかりです。
- 三島由紀夫割腹事件
- 三菱重工爆破事件
- ホテル・ニュージャパン火災
- 羽田沖 日航機墜落事件
- 御巣鷹山 日航123便 墜落事故
- 宮崎 勤事件
- オウム真理教事件
10代で自衛隊のエリート部隊に配属される辺り
相当優秀な人材だったんだろうなぁと
思っていましたが
地方所属の一警官が警視庁の鑑識課に異動になったのも
改めて戸島國雄さんの実力の高さを
裏付けるものですよね。
戸島國雄さんが実力を発揮したものに
鑑識以外で似顔絵捜査があります。
この似顔絵捜査が誕生したのは
1976年に戸島國雄さんが発案したものだったのです。
似顔絵捜査を考案した理由は?
戸島國雄さんが考案した理由は
初動捜査が大事な事件で
時間のかかるモンタージュ写真より
似顔絵の方が完成に要する時間が短い
と言う理由です。
1970年代はモンタージュ写真で犯人画像を
作成していました。
この方法の欠点は
犯人に似ているという写真を切り取り合成する
ということです。
モンタージュ写真が根本的に問題がある
ということだったんです。
似ている写真が無ければ犯人の顔を
再現することが出来ないんですよ。
しかも完成に物凄く時間がかかるんです。
一方似顔絵であれば
被害者が見たという人物の特徴を聞き
再現していくので完成までの時間が少ないです。
ちなみにそれぞれの完成に要する時間は
似顔絵が出来上がる時間が1~2時間
モンタージュ写真の完成が数時間~数日
となっています。
モンタージュ写真は似ている写真を探している間に
情報提供者の記憶が変化するという
問題もあったのです。
ちなみに似顔絵のトンちゃんと呼ばれる
戸島國雄さんであれば30~40分で仕上げるそうです。
戸島國雄がタイに渡ったのは?
1995年11月にJICA専門家として
タイ内務省警察局(現・タイ警察庁)へ赴任し
鑑識技術の指導をするために渡航したのです。
タイで実際に行われている捜査方法が
日本とは大きな差があったことに
衝撃を受けたと言います。
事件現場では部外者が入り込み
遺留品を探すどころではなかったようです。
言葉や文化の違いによって当初は失敗ばかりで
とても悔しい思いをすることの連続で
どうすればいいのか悩んでいました。
日本での活躍が嘘のように
タイでは失敗の連続でしたが
ある人の一言で人生が逆転します。
タイで人生が逆転した出来事は?
タイに赴任した時にタイ内務省警察局のサワン将軍から
郷に入ったら郷に従え
と日本語で言われたことを思い出したのです。
JICAから提供された宿は高級ホテルでしたが
タイの警察官と同じレベルの部屋に住み
地元の人が行く食堂で食事をし
コミュニケーションを取るようにすることで
周囲の信用を築いていったことで
戸島國雄さんが伝えようとしたことが
タイの警察官に伝わるようになったのです。
これってコミュニケーションの重要なところなんですが
相手に自分の意見を聞いてもらおうとするなら
相手と同じ目線に立ち
まずは相手の話をしっかりと聞くとこなんですね。
戸島國雄さんが一方的に
これからはこうしろ
と言っても心を開いていない人間には
何も届かないのです。
だから当初は失敗の連続でしたが
郷に入ったら郷に従え
を実践したことで相手に寄り添った結果
戸島國雄さんの声が届くようになったんです。
その結果、戸島國雄さんの実力が分かるようになり
2年の任期を延長し3年間、タイで指導をしたのです。
似顔絵捜査のパイオニアの人生を変えた妻のキッカケとは?
似顔絵捜査のパイオニアである戸島國雄さんは
天才だったから似顔絵が書けたのではないんです。
東京は上野で似顔絵氏のテクニックを学び
独学でスキルを磨いていったのです。
そうした陰ながらの努力の甲斐あって
似顔絵捜査が認められ
その捜査方法によって検挙率が上がり
何度も表彰を受けることになりました。
仕事では充実感を得られる一方で
私生活では辛いことも起きています。
1994年、戸島國雄さんが53歳の時に
最愛の妻である寿子さんを白血病で失っているのです。
寿子さんは看護師長だったのですが
ある日突然体調を崩したので検査をすると
白血病が判明したのです。
寿子さんは医療従事者として
病気の知識もあったと思うので
自分には残された時間が無いと感じていたのでしょう。
戸島國雄さんと二人の息子あてに
遺書を残していました。
その遺書の一文が
夫を陰ながら支える妻を思わせるものでした。
極楽とんぼのあなたが帰ってきて
羽を休めるところで
いつも待っていたかったのに
ごめんなさいね
※ここでいう極楽とんぼって
のんきに生活している者を例えた言葉です。
恐らくですが
この一言で戸島國雄さんはいかに家庭を顧みず
仕事に没頭し
妻の異変に気付いてやれなかったことを
相当後悔したと思います。
失ってから分かるその人の大切さ
今の生活は失った人がいてこそだったのだと。
JICAの仕事でタイに行った理由は
戸島國雄さんの妻・寿子さんが亡くなったこと
これがキッカケだったんです。
妻を失ったことで意気消沈し
見かねた上司からタイ行きを勧められたのです。
その上司は
日本にいては失った妻の面影を追ってしまうが
海外に出れば思い出すこともできない忙しさが
戸島國雄さんを救ってくれるだろう
そう考えて提案したのでしょうね。
その考えは見事に当てはまり
戸島國雄さんはタイでも活躍し
名を残すことに成功しました。
戸島國雄さんは後に
タイでの鑑識指導は、妻からもらった第二の人生です
と語っています。
戸島國雄の鑑識で逆転人生とは?似顔絵捜査のパイオニアは妻がキッカケでタイへのまとめ
今回は次のようにまとめてみました。
- 戸島國雄のwikiプロフィール
- 似顔絵捜査を考案した理由は?
- 戸島國雄がタイに渡ったのは?
- タイで人生が逆転した出来事は?
- 人生を変えた妻のキッカケとは?
戸島國雄さんの妻がもし白血病になっていなければ
タイに行くこともなく
逆転人生の番組に出演することも無かったんでしょうね。
けれど奥様の不幸を喜ぶわけではありませんが
戸島國雄さんがタイに渡ったことで
タイで起きた事件を数多く解決できたことは
本当に喜ばしいことです。
辛い出来事も何がキッカケで変わるか分かりませんね。
最後までお読みいただきありがとうございました。