精神科医:崔秀賢 いわくら病院での開放医療への挑戦、精神科医療の行方は?【こころの時代】

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精神科医:崔 秀 賢(さい しゅうけん)先生が

こころの時代~宗教・人生~に出演される。

再放送なのですが、どんな人なのかなぁと思い

調べてみたら、とてもすごい人でした。

現在も72歳で現役で医師をされ、外来をされています。

すごさが伝わるかわかりませんが、

是非色んな人に知って頂きたくて、まとめてみました。

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崔 秀 賢 (さい しゅうけん)先生とは?

精神科医として人々と向き合ってきた崔秀賢先生。

20代で精神科の閉鎖病棟を目の当たりにしました。

その閉鎖病棟をいう空間にショックを受けました。

患者さんの行動を制限し、尊厳を奪う医療のあり方に、

納得がいかなかった崔さんは、

“開放医療”に取り組みました。

ここでいう開放医療とは、治療の主体性は患者側にあり、

その人権はあくまで尊重され、患者は人間的に扱われる医療であり、

という患者さんの人間としての尊厳を取り戻す医療です。

このような大きな改革に着手し、その改革をやり遂げた

崔先生とは、どのような方なのでしょう。

幼少期~現在に渡って順にみていきたいと思います。

少年時代

崔先生は1943年に東京で生まれました。

10歳の頃に近所のおばあちゃんが亡くなりました。

そのお葬式の列が長く続くのをみて、恐怖を覚えました。

「死ぬことが決まっているのに、

人はなんのために生きるのだろう」と。

言いようのない虚脱感に襲われました。

以来、崔先生はどこか翳り(かげり)を持つようになりました。

また先生の父親は牧師でした。

その環境の中で、世の中にいわれのない差別/偏見が存在することに

早くから気が付いていました。

差別や偏見をを受けた本人がどれほど傷つくかを想像できるのに、

「人はなぜ差別や偏見をもつのか?

なぜそれをなくそうとしないのか?」

という疑問を持ちます。

崔先生は牧師になることを決めていましたが、

尊敬するシュバイツァー博士が、医者をされていたので、

自分も医者の経験を積みたいと医学部にいくことにしました。

1968年に大阪大学の医学部を卒業され、

大阪回生病院内科の研修医をし、

大阪大学医学部精神科研修医となりました。

そして、

1970年、先生の運命を大きく変える

医療法人稲門会いわくら病院に勤務することになりました。

まず、少年時代から、

「死ぬことが決まっているのに、

人はなんのために生きるのだろう」

「人はなぜ差別や偏見をもつのか?

なぜそれをなくそうとしないのか?」

ということを疑問にもつというだけで、すごいなと思います。

道徳の授業などでもちろん習いますが、

子どもの時にそんなに深く考えたことなんて

正直なかったと思います。

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いわくら病院に勤務をはじめて

上記でも説明したように

1970年に崔先生はいわくら病院に赴任しています。

1952年に開設されたいわくら病院は

伝統ある精神科の病院でした。

しかし、労働運動で医師全員が退職し、

院長一人が残るという異常事態になっていました。

そこに、新たに精神科医が6人就職したのですが、

その内の一人が崔先生でした。

その頃のいわくら病院は、一定の評価を受けてはいました。

しかしそれは、看護人(看護師や看護助手)たちが

恐怖で患者さん達を支配している

監獄のような状態になっていました。

看護人たちは、地元出身の人々で、

経営者と血縁関係の人も多く、

よそからやってきた人たちに、

有無は言わせませんでした。

しかも、新しく来る人は、3,4年で

辞めてしまうことが多かったため、

看護人達にとっては通行人同然でした。

そんな体制の中で、

新たに赴任した医師達6人は、

現行の体制を批判、否定していきます。

・治療の主体性はあくまでも患者にあること

・患者の人権は尊重されるべきであること

・患者さんは人間的に扱われるべきであること

を訴えました。

ぽっと出の医師達に自分達を否定された看護人達の

反発はすごく、大混乱に陥りました。

「きれいごとを言って、どうせ3年で辞めていくではないか」

と、彼らは主張しました。

この時期、医師達6人は、文字通り、命を削る日々を送りました。

闇のなかの一筋の光

開放医療に取り組みだして、数年が過ぎた頃、

崔先生は大変なストレスをかかえており、

出勤拒否に近い心情で、

出勤の朝に病院に近付いていくと、

心臓がドキドキし、血圧が上がっていくのが

わかるほどに追い詰められていました。

そんな日々が1年ほど続いたある日、

医局に電話がかかってきました。

看護人から「ちょっと病棟にきてほしい」

という電話でした。

なんだろうと思い行ってみると、

看護人たちが、地元でとれたマツタケを

焼きながらくつろいでおり、

「先生も食べえな」と誘ってくれたのです。

そうして今まで話してくれなかった、自分たちのこと

患者さんのことを打ち明けてくれました。

その出来事をきっかけに、崔先生と看護人たちは徐々に

思いを共有できるようになりました。

そして、ついに病棟の鉄格子を外すことができました。

これは記念すべき出来事でした。

自分の命を削るような日々を送りながら、

それでも自分の意思、改革を辞めなかった

崔先生と仲間の先生方は本当にすごいと思います。

現状を守りたい、と思った看護人の方たちの

気持ちもよくわかる気がします。

各々の方たちが、手を携えることができた。

これは本当に大きなことだと思います。

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本当の闘い

鉄格子は外すことができました。

しかし、急に鉄格子を外された患者さん達は

戸惑っていました。

「自分たちはどうしたらいいのか?」と。

これまで、制限されるのが当たり前だったのに、

「自分で考えて行動して下さい。」

と言われても、できるはずがありません。

患者さんたちは1日ぼーっとしていることが多かったです。

さらに、一人で外出できるようになった患者さんが、

近隣で迷惑行為をすることもありました。

崔先生たちは、患者さんの自由を確保したい

と思っていました。(それが人間としての尊厳だからです。)

しかし、その一方で地域の人々に我慢を強いることに

なってしまったのです。

溜まりかねた地域の方々の不満が爆発した時、崔先生は

看護人、患者さん、地域の方、其々と

辛抱強く話し合いを続ける事を選択しました。

・権利には義務があること

・自由には責任があること

・病院のスタッフも患者さんも地域の一員であること

辛抱強く、繰り返し話をしていく中で、

徐々に信頼関係が築かれていきました。

そのような地道な努力の積み重ねによって、

ようやく体制が整ってきたなと感じたのは、

1990年代後半

崔先生が初めて赴任してきてから

20年近い月日がたっていました。

今度の精神病院の在り方や

崔先生の現在の思いについては

次ページで!!

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